宮本武典 展
- 私とわたしの万華鏡 -
会期 : 2005年2月1日(火)〜2月24日(木)
休廊日 : 日祝日
はなればなれの輪郭 |
彼の写真からは、あるモノを写真に写すと、写されたモノからすっぽりとタマシイのようなものが消えてしまい、消えたモノや酷似したモノを、狂おしく探し求めている喪失感が伝わってきた。写真とは、撮った瞬間に何かを置き去りにしてしまう仕掛けで、肖像写真、人物写真にその置き去り感が際立っていた。
宮本武典は、双子だという。双子の兄も美術家だという。それを聞いたとき、なぜ彼らが表現をすることになってしまったのか、少しわかったような気になった。 ひとりで生まれてくる子どもと一卵性の双子の違いは、当該者にしかわからない。少しの時間差で酷似したもう一人が生まれてしまったこととは、生まれ落ちた途端に、そっちが自分なのではないかという、おんぶお化けのようなものを背負ってしまうことなのではないだろうか。 宮本武典は美術大学の研究科を終了後、タイ、バンコクの日本人学校で4年間美術教諭として勤務した。そのときの生徒たちを撮ったシリーズの、少年と少女のポートレートを鏡の構図にして二人にして並べた作品では、どの子どもたちも、強い不安感を示す。思春期の彼らは子どもとおとなの表情を湛えている。今にも叫び出しそうな緊迫感に満ちている。だが一方を隠してひとりのポートレートにしてみると、ひとりひとりが、溶けていくように安定する。並んだ姿の右側の頭から頬、肩、腕までの輪郭と、左の頭から腕までの輪郭がつくる真ん中の空間が、タイムトンネルの入口のように見えてくる。苔か水草を写した背景模様の相似形のかたちが、彼らをはなればなれにした百億光年の遠さのように映ってくる。 彼の「Roots and Route」というタイトルの作品は「起原と経路」という日本語が併記さてれているが、都市の光景が切り取られている。トンネルに向って疾走する列車。電車のなかのいろんな国籍のひとびと。工場の煙突。アパートの夕暮れ。バルコニーとわずかに開かれた窓。写真にはシーンと音がするような無音が写っている。果ての果てのように静かだ。 写真にはざわめきが写るもの、体液が写るもの、匂いがたちのぼるものもある。それが写真という表現の魔力だが、宮本の写真は無音と喪失の輪郭を写しだす。 宮本は今度生まれてくるときも双子でありたいと思うのだろうか。母の胎内で兄と弟のまま永遠に生まれないことを夢見ているのだろうか。双子とは誰を見ても何を見ても、そこにあるのは、遠くにある私なのだと思ってしまうありようなのだ。だが、双子ではない私も同じだ。写真発明以後、わたしたちは、わたしたちに似たモノを探さずにはいられないように生きている。 入澤ユカ |
INAXギャラリー2 2005年の展覧会
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