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猪谷六合雄スタイル
−生きる力、つくる力−


解説

展覧会図録BOOKLETに収録の記事をもとに構成しています


猪谷六合雄年譜

猪谷六合雄 1958年6月頃
猪谷六合雄 1890 赤城山に生まれる
1897 前橋の小学校に入学
1902 スケートを始める
1905 水彩画を始める
1906 館林中学2年中退
1908 油絵を始める。1坪の部屋を作る
1909 模型飛行機を作る。4分の1坪の小屋を作る
1910 丸木舟を彫る。気球隊入隊
1913 気球隊除隊
1914 スキーを始める。紙の舟を作る。父の死
  応召されたが出征準備中に戦い終わる
1915 赤城山に志賀直哉の小屋を作る
1918 ジャワ島に渡る
1920 ジャワ島から帰国
1921 写真を始める
1922 組立て小屋を作る
1923 靴下を編み始める
1926 サダと結婚、スキージャンプを始める。利根川の水源探
  検
1927 第4シャンツェを作る
1928 第5シャンツェを作る
1929 ジャンプ大会、ヘルセット来る、立山へジャンプスキーを
  持ち込む。駒ケ岳、阿寒、摩周湖の旅を経て千島へ渡る。
  古丹消に千島第1の小屋を作る
1931 千春生まれる、セルロイドスキーの試験に白馬へ登る
1934 小屋の火事、滝の下の小屋を作る
1935 千島を去り赤城山に帰る。赤城山の小屋を作る
1936 赤城山に友人・関口泰の小屋を作る
1938 湯沢のスキー競技会で千春「提灯競争」に出場。
  千春、小学校へ入学。乗鞍山麓の番所に移住
1939 鈴蘭で初めて競技会に出場。番所の小屋を作る
1943 千春、日光の全日本スキー選手権大会で前走。
  土樽(新潟県湯沢町)へ移住。
  浅虫(青森市)へ移住。『雪に生きる』出版
1944 『赤城の四季』出版
1945 要目(青森県黒石市)へ移住。終戦を迎える
1946 赤城山に帰り、スラロームバーンの開拓
1949 志賀高原へ移住。『私たちのスキー』出版
1952 千春、オスロ・オリンピック出場。『私達のスキーアルバム』出版
1953 スキー科学研究会発足
1954 スキーモルモットテスト始め
1955 リフト研究会発足
1956 千春、コルチナ・オリンピックで銀メダル 受賞
1958 『スキーはパラレルから』出版
1961 自動車運転免許をとる
1963 トラベルカー1号を作る
1964 浪江(福島県)で自動車事故。ハウスカー2号を作る
1967 『初心者からのパラレルスキー』出版
1968 ハウスカー3号を作る
1971 蚊を取ろうとして自動車事故を起こす
1980 ハウスカー4号を作る
1986 永眠


小屋に生きる、小屋をつくる

会場写真 (小屋の骨組み再現)
会場写真

■1坪の部屋(1908年 18歳)

■4分の1坪の小屋(1909年 19歳)
8畳の自室が落ち着かないと作った3尺角の小屋。小さな空間に、テーブルや本棚を据え付け、椅子の下など至る所に引き出しを設けた。テーブル背後の壁一面に絵を描き、正面の鏡に映るようにするとともに、六合雄はこの小屋を石垣から張り出した露台の上に置き、好きな向きに回転できるようにした。また、さまざまな色のカーテンで部屋の雰囲気を変えられるようにしていた。

■志賀直哉の小屋(1915年 25歳)
丸太と炭俵で建てた全長約8メートル、幅3メートル弱の小屋。志賀直哉はここで短編『たき火』を著した。『たき火』には六合雄の姿がKさんとして描かれている。

■組立て小屋(1922年 32歳)
床、4枚の壁、屋根と6つのパネルを組立ててできる、広さ1坪半のプレハブの勉強部屋。地面に4本の杭を打って土台とするため、どこにでも簡単に建てられたという。壁パネルには家具があらかじめ固定されていた。

■千島第1の小屋(1929年 39歳)
古丹消に腰を落ち着けることを決心した六合雄とサダは、村人の手を借りながら小屋を建てた。2寸角の柱を細かく並べ、貫を全く用いず、羽目板に耐力を持たせている。この構造はその後に建設する小屋にも見られる。風呂場は三方がガラス張りで、トイレは腰掛式、作業部屋や現像用の暗室を備え、床は板張りで靴のまま上がることができた。千春はこの小屋で生まれた。1934年、ガソリンランプの爆発のより焼失。

■滝の下の小屋(1934年 44歳)
千島第1の小屋から300mほど離れた小さな滝のそばに六合雄が設計して建てた二階建て、地下室、バルコニー付きの住居。柱材は第1の小屋より細く1寸6分角。滝や近くの温泉から水を引き、便所や風呂、台所などに用いていた。

■赤城山の小屋(1935年 45歳)
千島から赤城山に戻った猪谷一家が、テント住まいをしながら大沼南岸で、湧き水の出ることから清水と呼ばれていた場所に建てた住まい。スキーの着脱、置き場のために入口の部屋は広く取ってあり、便所は離れにあった。

■関口泰の小屋(1936年 46歳)
赤城山を度々訪れ、家族のような付き合いをしていた文学者・関口泰のために猪谷一家の小屋の隣に建てた。関口泰著『山湖随筆』(1941年発行)には、「冬の赤城山」の項でこの小屋が描かれていて、六合雄が撮影した赤城の写真が数点使われている。

■番所の小屋(1939年 49歳)
ゲレンデ下に新築した二階建ての小屋で、六合雄が建てた小屋の中で最も大きい。材料運搬や建設、造作は一部で村人の力を借りたが、ほとんどを一家で行なった。小屋には電気が通っており、夜でも暗室作業が可能になっていた。

■浅虫の小屋(1943年 53歳、改造)
雪と、千春が通う中学校がある所を求めて辿り着いた土地が浅虫(青森市)だった。猪谷一家はここで古い鶏舎を借り受け、すぐに快適な空間作りを始めた。

■要目の小屋(1945年 55歳、改造)
八甲田山西麓にあり、営林署が使用していた元温泉宿であった。中学に通う千春を知人の家に預け、サダとともに移住した。この小屋を六合雄は「サス」(最後の巣)と呼んでいた。

■丸池の小屋(1949年 59歳、改造)
志賀高原丸池ゲレンデの真ん中にある、長野電鉄所有の神津ヒュッテを借り、改造して住んだ。小屋は現在猪谷記念館として保存され、猪谷一家の歴史を伝える資料が展示されている。

小屋の図面 撮影 : 普後均 赤城山の小屋 撮影 : 猪谷六合雄
小屋の図面 赤城山の小屋


好きなところで暮らしたいから車に住む

ハウスカー3号 撮影 : 猪谷六合雄 トラベルカー1号室内前部 撮影 : 猪谷六合雄
ハウスカー3号 トラベルカー1号

■最初の車(1961年 71歳 トヨタ・クラウン)
六合雄は1960年、71歳で自動車学校に通い始め、翌年免許を取得する。以降国内の移動にはほとんど車を用いたが、宿に泊まるわずらわしさから車に寝泊まりすることを思いついた。クラウンは後部座席の背を取り外して、トランクの端まで脚が伸ばせるように改造された。

■トラベルカー1号(1963年 73歳 いすず・エルフ)
六合雄が車住まいを本格的に始める最初の車となる。もとは東大の探検チームが南米大陸横断に用いたマイクロバスであった。六合雄は内部にテーブル、本棚、食器棚、ベット、炊事場などを作り付けた。1964年11月、北海道へ向かう途中の福島県浪江町で人の列をよけようとして電柱に衝突し、六合雄は腸に穴の開く大怪我を負う。この事故が原因で「トラベルカー1号」を廃車にしたと思われる。

■ハウスカー1号(1964年 74歳 フォルクスワーゲン・デリバリーバン)
浪江の事故から2ヶ月後に購入した1962年型のフォルクスワーゲン。「ハウスカー」という名称は陸運局で付けてもらった。

■ハウスカー2号(1968年 78歳 フォルクスワーゲン・デリバリーバン)
1968年型のフォルクスワーゲンを発売とほぼ同時に購入したと思われる。居室は前後に通路を作り、運転席から出入りできた。中にはテレビがあった。1971年9月、都内を走行中に車内を飛び回る蚊を取ろうとして衝突事故を起こした。

■ハウスカー4号(1980年 90歳 トヨタ・コースター)
最後の車となった。

■大形バスの仕事場(1970年頃)
埼玉県飯能市の知人の工場敷地の中に置いた中古の観光バス。座席をすべて取り外し、作業部屋、倉庫、暗室とした。車住まいをする六合雄の作業場だった。




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